Modern Age Idol

ハロプロ/AKB/原宿駅前パーティーズ/ニコモ/子役。たまにアイドル業界のことについて考えます

伝説のジュニアアイドルについて調べてみた。

一昨日もお伝えしましたが、児童ポルノ出品でアマゾンが家宅捜索された件。

アマゾン:児童ポルノ出品、09年に指摘 東京のNPO - 毎日新聞

児童ポルノ:野放しだった商品「新品写真集35万円」も - 毎日新聞

 

価格が高騰しているジュニアアイドルの写真集ということで、栗山千明の「神話少女」(現在絶版)などが有名ですが、児童ポルノ法規制以前に脱いだジュニアアイドルについて調べてみました。

 

まず児童ポルノ規制法前夜のジュニアアイドルを理解するためには清岡純子という写真家について知る必要があります。

清岡純子

大正生まれの写真家で、子爵の出。子爵とは華族爵位の一つです。なんと菅原道真の子孫。そんな良家の人が、少女ヌードを撮影して、その道を切り開いているのだから興味深い。

この清岡純子が見いだした伝説のジュニアアイドル(あえてここではジュニアアイドルと呼びます)が花咲まゆです。

 

■花咲まゆ

wikipediaによると「女子中学生という年齢からは想像もできないほど豊満な女性らしい肉体を持ちながら、全く陰毛のない外陰部のアンバランスさ、清純なスクール水着焼けが強烈な印象を残した。特に『潮風の少女』に収録されている、ワレメを突き出したポーズをローアングルから撮影した写真は、読者に強烈な衝撃を与えた。現在でも評判が高い作品で、演出等についての議論が続いている。」という、大変この時世コメントを申し上げにくいのですが、とにかく大人っぽいプロポーションとあどけなさが、当時のロリコンたちを虜にしたようです。

今となって裸を拝むことはできませんが(google画像検索で多少ヒットしますがほとんどがモザイクあり)、その道の先駆者であることは間違いないようです。

 

そしてその花咲まゆと時を同じくして、出てきたのが西村理香と倉橋のぞみです。

■西村理香

タイ出身のジュニアアイドルで、父親が酒飲みで身売りされそうになったところ、日本路カメラマンの力武靖に見いだされ、日本でモデルになったという、ジュニアアイドル業界的にはあるあるな話。

■倉橋のぞみ

小学生ですでにヌード写真集を発表。彼女を撮り続けたのは写真家・彩紋洋実

 

こうやって見ていくと、当時の有名なジュニアアイドルはカメラマンとセットで語られることが多い。つまり被写体の存在のみならず、カメラマンの腕、作品としての価値があった時代ということでしょう。

 

70年代、少女ヌードはまだアート的な立ち位置でした。それは女性の解放という文脈で語られることが多く、今ほど規制の対象ではなかったんですね。

80年代はマーケットとして花開いた。上記の3人のモデルは、まさにこの時代に生まれたスターです。なぜこの頃、少女ヌードが摘発されなかったのか。それは当時、陰毛のない被写体、つまり少女のヌードというのは猥褻図画には当たらなかったからです。80年代日本で生まれた大量のジュニアアイドル作品は世界的、歴史的に見ても希少価値は高いです。なぜならこのようにアートではなく、完全なる商品として国内に大量に作品が流通したことは、有史以来日本以外ではほぼなかったからです。

85年の宮﨑勤の事件でロリコン=悪という社会的批判が一気に高まり、99年の児童ポルノ規制法が施行。

今では売買はおろか、見ることも出来ません。

 

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児童を虐待することは許されませんが、またなぜ児童ポルノを見ることがいけないのか、については明確な答えがある人はこの世にはいません。論理的に考えて、児童を虐待しない限りは、閲覧を制限される正当な理由はほぼないです。

児童には善悪を判断する力がなく、また未来において過去のことで虐められる可能性があるから。確かに正当な理由ぽいですが、それをまた、当事者以外の他の誰かに止める権限があるのか、と言われたらなんと答えるのでしょうか。

あくまで児童ポルノの規制は社会的要請だと考えます。社会的要請、モラルに関しては国や時代によって変化するものであり、民主主義である以上、社会的要請によって作られた法律には意味があります。その時代を生きる人は、たとえ嫌でも守らなければならないでしょうし、嫌であれば革命家か芸術家になる他ありません。

 

おもしろいことは、なんて正しくないんだろう。|福田フクスケ|note

 

フランスの爆破テロにおけるシャルリー・エブドの風刺画、イスラム国による日本人人質事件における、twitter民のクソコラ反応、表現の自由を巡る闘争に終わりはありません。革命家、芸術家は自由を獲得するために戦わなければならないし、民衆は平和秩序と社会の安寧を望みます。正しい答えはありません。

 

誰も何も傷つけない、毒にもクスリにもならない表現は、表現とは呼びません。

誰も何も傷つけない表現しか生み出せなくなったら、人間は痛みを知らず、痛みを知らないからこそ、人を傷つけ、やがて滅亡の一途を辿るでしょう(大体腑抜けた人間ばかりになるのは容易に想像ができます)

 

東浩紀

少し哲学的に言えば、この問題はつまり「欲望」と「行為」のあいだに「表現」という中間領域があって、その扱いが厄介という話なのよね。人間なにを欲望してもいい。これはみな同意すると思う。人間はなんでも行為していいわけではない。これも異論ないだろうけど、しかし表現はその中間なんだよな。

と言っていました。まあ分かり合う必要もないと思いますし、同じ社会のなかで、異なる欲望を持ったもの同士をどう住み分けるか、要は社会設計の問題だとは感じています。